大阪木鶏クラブでの古典講義も進んできました。三綱領の詳細が文献から紹介されている部分です。今回は、テキストp11−12、p13、p31の3回引用されています「文王編」を抜粋して解説してもらいました。
詩経「文王」編より「大学」に引用されている部分
文王1(2019年8月例会 配布資料より)
文王上に在り 於天に昭く
周は旧邦なりといえども それ命ぜられて維れ新たなり
有周不いに顕らかなり 帝命不いに時し
文王捗降し 帝の左右に在り
上記コマ番号171から文王編です。
ここからは「周は旧邦といえども それ命ぜられて維れ新たなり」の部分が引用されています。
次に、
「穆穆たる文王、於緝熙にして敬なり。」
この部分はテキストp13の部分。
そして、
「殷の未だ師を喪わざるや、克く上帝に配す。
宜しく殷に鑒みるべし、駿命は易からず。」
ここはp31の部分です。
大学 「至善に止まる」の解説部分 (次回予習として)
「明徳」「親(新)民」「止至善」を解説したものと朱熹は考えている。次の部分はそのうちの「止至善」の解説である。
「大学」を素読する テキストpp12-13
詩(玄鳥編)に云はく、「邦畿千里、維れ民の止まる所」と。
詩( 緡蛮編 )に云はく、「緡蛮たる黄鳥、丘隅に止まる」と。子曰わく、「〔黄鳥すら〕止まるに於てはその止まる所を知る。人を以て鳥に如かざるべけんや」と。
詩に云はく、「穆穆たる文王、於、緝熙にして敬止す(止まるところを敬しむ)」と。人君と為りては仁に止まり、人臣と為りては敬に止まり、人子と為りては孝に止まり、人父と為りては慈に止まり、国人と交わりては信に止まる。
「詩経」商頌・玄鳥編。殷王朝の創業をたたえたもの。
「詩経」小雅・緡蛮編。緡蛮とは小鳥の鳴き声、あるいは美しい姿のこと。
訳
『詩経』では、「国の領域千里四方、これこそ民衆の止まるべき所だ」とうたわれている。『詩経』では、「愛らしい黄鳥は、丘の隅に止まる」ともうたわれるが、孔子は「黄鳥でさえ、止まるについては一定の止まるべき所をわきまえている。人でありながら鳥にも及ばないでよかろうか」と言われた。『詩経』では、「徳の充実した文王さま、ああ、輝きわたって、止まるべきところに慎しんでおられる」とうたわれている。人の君としては仁愛の徳に止まってそれを標準とし、人の臣としては敬慎の徳に止まってそれを標準とし、人の子としては孝行の徳に止まってそれを標準とし、人の父としては慈愛の徳に止まってそれを標準とし、都の人びととの交際では信義の徳に止まってそれを標準とする。〔こうして、意念を誠実なものにしてゆくのだ。〕
「緡蛮たる黄鳥 」。鳥ですらどこで落ち着くべきかを知っているのに、人間がどこで落ち着く、到達すべき正しいところがわからないというのでは問題である。
中江藤樹先生もこの言葉を愛されていたようですね。先生の詩の解説はこちら>> 中江藤樹画像-万世の師の風格 | 玉川大学教育博物館 館蔵資料(デジタルアーカイブ)
大学講義 文王編解説 「致知」読者会・大阪木鶏 まとめ
松岡先生の講義では、
「古典大学というのは、人間としてどうあるべきかを問うている」、
という点を繰り返し説明されます。
単に知識の蓄積を求めるのではなく、日常生活のなかでどのように取り入れていくかが大切なこと。
また、本に書いてあるからといって、真実であるとは限らないことも語られます。
「歴史とは都合の良いことのみを残す。その点をしっかりと読み取らなければならない。書いてあるから真実であるとは、あまりにも短略である。信じていいところと、そうでないところを判断することが大切」。
この話から、露伴が斎藤茂吉に語ったことを思い出しました。
斎藤茂吉が幸田露伴に問われたときに、
「先生、それは書にあります」
と答えると、露伴が紅潮した驚いた顔で、
「君は青史に書いてあることを信じているのかね?」
と語ったことです。
なかなかの意味合いだな、と当時感じたことを思い出します。また、伝記作家の小島直記先生の言葉、「他伝信ずべからず、自伝信ずべからず」との言葉も思い出しました。
さて、講義が進むにつれて、段々とこの三綱領の意味合いが繋がりつつありますね。何が大切なのか。どうあるのが理想なのか、などなど。
次回も楽しみましょう!
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