さて、『大学』の講義も進んでまいりました。また、「古本大学」(旧本)と章句本との違いが出てきます。
テキストp10の2行目までが経の1章であり、以降(伝の10章)が曾子の考えを曾子の門人が記録したもの。
それぞれ三綱領の解釈が順にあったあと、八条目各条との関係を説明している部分が現在講義をしていただいているところです。
伝すなわち解説の文はすべてで十章である。そのうち、前の四章では〔明明徳・新民・止至善の〕三綱領の主旨を総括的に論じており、後の六章では〔格物・致知・誠意・正心・脩身・斉家・治国・平天下の〕八条目の工夫を詳細に論じている。
大学・中庸 岩波文庫 キンドル版位置No.2863
今回、p14-p17の4行目まで講義が進みましたが、その最後の2行は本来p10の2行目「未だこれ有らざるなり」の後にあったもの。その末尾二句を除いて第4章「訟えを聴くこと〜」(テキストp16 5行目)のあとに付け、第5章とした。
ここまでが状況説明です。では今回の講義に参りましょう!
古典「大学」「至善に止まる」の解説。詩経・衛風「淇奧きいく」編 切磋琢磨の出典
上記 詩経講義 – 国立国会図書館デジタルコレクション のコマ番号39から衛風10篇に入ります。
「ケン」タリとあるところ、各テキストでは「喧」の字になっていますが、詩経本文では下記のごとく「宀」のないものです。
「咺」・・新漢語林によると、口+亘でケン・カンと発音し、①泣く(子供がなき続ける)、②威儀容姿のきわだっているさまを現す、とある。安岡先生によると「あきらか」と読まれています。(「人物を創る」p88)。
切磋琢磨 切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとし
いわゆる切磋琢磨の出典ですね。そのあとの人を形容する4つの言葉に続きます。
・瑟たり・・・おごそか
・僩たり・・・心広く
・赫たり・・・明るく
・咺たり・・・際立っている
瑟たり・僩たり とは恂慄 (恐れ慄くこと)。
これも恐怖心からではなく、相手の人格から発せられる威厳から受けるもの。
赫たり・咺たり とは威儀のこと。立ち居振る舞いに威厳があり、礼節に堂々としている様子。
瑟の歴史はきわめて古い。文献では古琴とともに「琴瑟」と併称され、最も古くから見える弦楽器である。『詩経』[1]、『書経』[2]をはじめ、先秦の文献にしばしば見える。
引用:瑟 – Wikipedia
厳かな音色がしたそうですよ。
細工をするときの表現から人格陶冶を表す。ノコギリや小刀で「切る」。「磋」ヤスリやかんなで剃り削ること。「琢」槌やノミでうち叩くこと。「磨」砂や小石でスリ磨くこと、となっている。
順序を踏んで学問を修めていくこと。
ここは「衛」の国の第11代武公を讃えたものとされる。
周公旦は武庚禄父亡き後の殷の民を弟の康叔に委ね、康叔を衛君に封じ、黄河と淇水の間にある故商墟(旧殷の都、のちの朝歌:現在の河南省淇県)に赴任させた。この時、周公旦は康叔がまだ若いのを危惧して、「康誥」・「酒誥」・「梓材」の3つを教え込み、為政者の法則とさせた。
引用:康叔 – Wikipedia
ということになります。だんだんつながってきましたね。つまり、文王の息子のうち九男で武王の弟、康叔が衛の国を治めることになった。数えて11代目の武公を讃えたもの。
「あの淇の川のくまを見れば、緑の竹が美しく茂っている。〔その竹のようにすばらしい〕才能ゆたかな君子は、〔まるで細工師が〕切りこんだうえにやすりをかけ、たたいたうえにすり磨くように、〔どこまでも〕修養をする。慎しみ深くみやびやかで、はれやかに輝かしい。ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」とうたわれている。「切りこんだうえにやすりをかけるよう」というのは、人について学ぶことを言ったのである。「たたいたうえにすり磨くよう」というのは、自ら反省して修養することである。「慎しみ深くみやびやか」というのは、内に省みて恐れかしこむことである。「はれやかに輝かしい」というのは、気高く礼儀正しいありさまである。「ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」というのは、盛んな徳をそなえて最高の善におちつく人は、民衆にとって忘れることができないというのである。
大学・中庸 岩波書店 位置No743
詩経 周頌 文王・武王、祖先の王を讃えたもの
上記も詩経講義 – 国立国会図書館デジタルコレクション からです。コマ番号219の部分です。
「周頌」は祖先の王を讃えた歌です。
下記の部分は民衆はみな恩恵を受けた。その恩を忘れなかったことを表現している。
『詩経』にはまた「ああ、前の代の王たちのことは、忘れられない」とうたわれている。君子(為政者)は王たちが賢者とした人を賢者として敬うとともに、また王たちの身内の人を身内として親愛し、庶民の方では王たちが楽しみとしたことを楽しむとともに、また王たちが利益としたことを利益として受け収め〔、こうして前の代の王たちのおかげでよく治まっ〕た。だからこそ、いつの代になっても忘れられないのである。〔みな意念を誠実にした人のことをほめた詩である。〕
同上
以上が「至善に止まる」の解説となっているところ。この「止まる」という点が非常に大切である、と松岡先生は重ねて説明されます。
「本末」に関する記述
訟を聴くこと吾猶人のごときなり。p16 5行目から。
訴えごとの処理よりよりも訴えごとが起こらないようにするのを根本とする。
孔子は言われた、「訴えごとを裁くことでは、わたしも他の人と違わない。どうしても〔違ったところを言え〕ということなら訴えごとを無くさせることだ」と。誠実でない者には、偽りの申し立てを巧妙にのべたててもむだだと悟らせて、〔軽々しくは訴えを起こさないで誠実になるよう〕民衆の心を強くひきしめるのだ。このように〔意念を誠実にすることに〕努めるのを根本をわきまえたものというので
大学・中庸 位置936
そして最後の二行は、テキストp9 4行目「天子より以て庶人に至るまで、壱にこれ皆身を脩めるを以て本と為す」の部分、上文の結びとしてあったもの。
「天下国家を目指しながらも我が身をよく修まることを第一とするのを、真に根本をわきまえたものといい、根本を知りぬいているのを知識の極みというのである。」
以上が「物に本末あり、事に始終あり」の「本末」の解釈となる。
究極はなにを言わんとしているか?
字句の意味をとるだけでなく、「なにを言わんとしているのか?」ということを常に問われながら、進まれます。
「大学」とは「成人」の学問である。訓詁学になってはもったいない。もちろん時代背景、歴史的つながりも当然に大切ではあるが、そのような表面的なことだけではなく、「人間学」という「人としてどうあるべきか」という視点を忘れないようにしなければならない。
なぜ詩経を孔子はすすめるのか?
ここも長い間、疑問に思ってきたと語られます。
知識の奥にある、人間としての「情緒」の深遠さ、大切さを明らかにしたと考える。
この「情」が大切。これがなければ人としては半人前。
知識ではだめで、省みることができる徳が必要。そのような感覚を学ぶために古典を以てすり合わせていく。
「大学」だけでは駄目であるが、基本として重要な事が語られている。
なにが難しいか?
「心」「性」「理」「情」をどう理解をすすめるかが問題となってくる。形而上的な概念も大事になってくるが、あまりそちらに拘泥しても意味がない。そのバランスが大事になってくる。
古典講義「大学」まとめ
知識は大切である。これを否定する訳にはいかない。しかし、知識だけではこれまた心もとない。実践して知恵になり、智慧と昇華することが理想ですね。
次回は面白いところ、聞いたことがある表現に出会います。
時間の許す方はどうぞ参加してみてください。
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