松岡照子先生による「大学」の講義もいよいよ本文に入ります。
今月の講義のポイントは大学の三綱領の一つ、「明徳」についてでした。
明明徳・親民・至善を三綱領といい、これらがわかれば、あとは読む必要はないくらい重要な核心部分です。

あくまでわたくし個人の理解も含まれていますので、「そんな意味ではないよ」、「私はこのように受け取ったよ」などの意見があれば、会員の皆様、教えて下さいますようお願いします。
それでは、講義録に進んでみましょう!
「大学」を学ぶのに朱子学でいくのか、陽明学でいくのか?
朱子学と陽明学とどちらをメインにして考えるか、という点の疑問については「朱子学」をメインにして考察していきますが、両者を追わなければなかなか理解しにくいので、陽明も引用比較していく、とのことでした。
朱子学と陽明学
端的に言えば、朱子学に対しての「批判」が陽明学の元ですから、そこをどのように捉えていくかが、大切になってきます。
また、批判と言っても、「思想」に対してであり「人物」に対するものではないことは、わきまえておかなければなりません。
深さで言うと朱子のほうが深いとのことでした。
「天の理」という概念が朱子にはあるので、広く大きい思想になっている。
三綱領の第一・明明徳の「明徳」とは何か?
『大学』では「明明徳」「親民」「止至善」を三綱領といいます。それを実現するために八条目があげられています。
本日はこの一行、

最初から難しいところですね。

徳とはなんぞ?となれば、深い思想的考察が必要ですね。先生はよく形而上(meta-physics)・形而下(physics)という表現を使われます。理解の一助となれば。
明徳と玄徳

明徳を明らかにするとは、「自己の持っている能力を発揮する」ということ、自分に備わった素質を、外の世界に表していくということ。
明徳の裏に玄徳があり、その下に格物致知がある。
「大学」とは修己治人の学問であり、人の上に立つ為の学問である。そのためには「己を知る」ことの大切さが非常に重要性を帯びてくる。
我々人間には「生まれながらに備わった」徳がある。しかしそれだけでは力が発揮されない。目に見えない、木で言うならば「根」にあたる部分が大切である。
その部分を追求していくことが、「学問」の意義であることを忘れてはならない

これぞ己事究明であります。
明徳を明らかに=自分を知りなさい
「徳」という言葉なので、良い部分のみが含まれると考えがちですが、人間どうでしょう?当然、悪い感情・観念などがありますね。そういった点をどう処理すれば良いのかを、仏教的なアプローチを通して解説して下さいました。(先生は得度されています)。
煩悩 三毒とは?
貪・瞋・癡という克服すべき根本的な3つの煩悩を毒に例えたもの三毒というのですが、こういった煩悩が自分自身の中に在ることをはっきりと認識しなければ成長は望めない。
- 貪欲:貪りのことーむさぼり・必要以上に欲しがること。
- 瞋恚:怒りのこと。
- 愚癡:愚かさ。
これらの「煩悩」をしっかりと認識すること、克服することが「自分を知る」ということ。
この煩悩というものはすべての人が持っているもので、持っていない人はいない。

ああ、なるほど!どんどん知識を仕入れて、このような煩悩から自由になる勉強をすればいいんですね!

それでは単に知識を仕入れているだけで、自己肥大に陥るだけですよ。「汝自身を知る」ことにはならない。単純な世界をうけいれること。すべてのものには「根」があるということが大事。
眼前に広がるありのままの世界を受け入れているだろうか?
日々の生活で「己を知る」ということは、空理空論に時間を費やすのではなく、アタリマエのことをすることが大切。

道歌に「道という 言葉に惑う ことなかれ おのが朝夕 なす業と知れ」とあるような心境です
眼横鼻直がんのうびちょく 道元
道元が帰国後、「何をお土産にお帰りになりましたか?」という質問に対して、答えた中に「眼横鼻直」と言う言葉があります。
この言葉の真意は「あたりまえということがわかった」と説明されています。
眼が横に2つ付いている、鼻は縦向きに付いている、そうですよね?当たりまえのことです。この事実に対して、美辞麗句をならべたてた説明や、相手を煙に巻くような観念論で抽象的説明に終始したりすることにはなんの意味もないことは明らかです。
ではわれわれは、あたりまえのことをアタリマエのこととして受け入れられているでしょうか?
日常の生活を真剣にすることこそが(深刻ではなく)、即修行となり「己を知る」ことにつながる。その奥にはすべてにつながる「根」がある。あたりまえのことをアタリマエのこととして日々重ねることで、すべての「根」とつながっていることに気づく。
「玄徳」から「明徳」へにじみ出る感じですね。
すべてのものには「根」がある阿頼耶識あらやしき

人間にも、ものにもすべてのものには「根」がある。これが非常に重要である。大学では玄徳と表現されている。仏教では阿頼耶識といわれる。
この説明も難解ですが>>阿頼耶識 – Wikipedia、論語を引用しながら説明されました。
季氏第十六 九(四二九)
先師がいわれた。
「生れながらにして自然に知るものは上の人である。学んで容易に知るものはその次である。才足らず苦しんで学ぶものは、またその次である。才足らざるに苦しんで学ぶことさえしないもの、これが下の人で、いかんともしがたい。」
「生まれながらにして」という部分が大事である。我々にはそのような何か「感じ入る」もの、ポイントがもともと備わっている。そのポイントが似通ったもの同士が、縁を結ぶ確率が高い。袖振り合うも多生の縁、とはよくいったものです。
よくある誤解として、その人の本質と肩書は関係ない、ということを話されました。
人間は在るときに「錯覚」をおこす。例えば大きな会社に入れば、他人は自分に頭を下げていると錯覚してしまう。あくまで「看板(会社)」、「役職」に頭を下げているのに気がつかない。
それでは悲劇である、、。
朱子の思想哲学の広さ

朱子の思想は宇宙を意識している。すべてのものは相対している、しかし根っこは一つであるとする。
南宋(1127〜1279)の朱子によって高く評価され、宋学の祖となったのが「太極図説」を書いた北宋(960〜1127)の周敦頤(号は濂渓)です。この周子の下で勉強していたのが二程子(程明道・程伊川)です。
朱子学と陽明学との違い
朱子学 |
二元論 |
性即理 |
民を新にするに在り |
知先行後 |
陽明学 |
一元論 |
心即理 |
民に親しむに在り(古本大学) |
知行合一 |
「大学」などの古典研究で、どの部分に集中するべきか?
- 周易の三要素。「不易」「変易」「簡易」のうち「不易」を研究するべき。つまり「変わらざるもの」を研究するべきである。
- 諸行は無常である。
- 人間世界には変化し続ける部分と、変化しない部分との両面が在る。
- 人間とは「矛盾」の中で生きている。
- 皆どんな種をもっているか(仏教用語でいう種子)。その種子同士が引き合う。
- 実践の大切さ。
まとめ
今回も非常に難解な言葉をわかり易い表現、例えを用いて説明していただけました。

後半の2,3段落が反射して見えないので、その段落を記します。
才智や言葉だけでは人は動かされません。他を動かすに足る人格、人間的魅力が具わってこそ初めて人は動くのであります。然しそれとて一朝一夕にできないことも、また確かなことで、自分の狭い知恵、経験の範囲内で対処するだけで、小さく固まってしまっては人は動じません。自ら謙虚に学ぶ心を内に、自然に培われたものがその人の体から薫りを放つようになったときに、初めて人はその人を振り返るようになり、また自分も相手の人物を見極められるようになるのです。
学問は人間を変えます。しかし人間を変えるような学問でなければ学問ではないのです。そして人間とは他人のことでなく自分自身のことなのです。他人を変えようと思ったら先ず自分を変えることで、自分を修養しなければ人も治めることができません。
人間学の基本は、結局のところ修己、己を治めることに尽き、古典に学ぶということは先哲の知恵をつかみとり、また自分の人生を肥やすことでもあります。

「明徳」の意味を本当に突き詰めていくと時間がいくらあっても足りない、とおっしゃられながらの講義となりました。複雑で豊富な内容を「少し」感じ取ることができたように思います。
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