先月に引き続き、『大学』の本文の講義です。「明明徳」「親民」の解説です。ここの三綱領が非常に大切なので、しっかりと時間をかけて説明をしていただいております!
いろいろなことがわかってくると、人に対する「思い」が出てくる。
「明徳」(人が生まれながらに持っている)をわかるためには、自分を知ることがまずは大切である。
だんだんわかってくると(顕在部分)、もう一段奥の部分を追求したくなる(潜在部分:玄徳)。そして、縦糸のみの学問では不十分であり(訓詁学)、横の人とのつながりによる「人間学」を追求してはじめて完成に近づけると考える。
「学ぼう」とする意志・気持ちこそが大切。
子曰、性相近也、習相遠也。 【陽貨十七−二(436)】
先師がいわれた。―― 「人間の生れつきは似たものである。しかししつけによる差は大きい。」 ○この言葉は、どう訳して見ても、「性相近し、習相遠し」という文語訳に及ばないであろう。 ○孔子のかような言葉は、現代人の耳には、さほど強くは訴えないようである。だが、孔子の教育に対する終生の熱意が、この確信に出発したものだと思うと、恐ろしいまでに厳粛な言葉なのである。
子曰、唯上智興、下愚不移。【陽貨十七−三(437)】
先師がいわれた。―― 「最上位の賢者と、最下位の愚者だけは、永久に変らない。」
なかなか厳しい教えですね。
松岡先生は、学ぼうとする意識が大切なこと、そして継続することの重要性を説かれます。生まれ持ったものも大切であると語られました。
なにより人間は不完全な存在であり、完全なものは「神」である。
他者に「完全性」を求める人間は非常に幼い、とも語られました。
学ぶことによって人は変わっていく。狼に育てられた赤子の話をされながら、「習い」の重要性を説明されました。
「親民」とは? 民に親しむにあり。
民に親しむとは畢竟「仁」である。他者に対する思いやりである。
人間はみな孤独なものである。その中で「学び」を通じて、他者に対する「思いやり」を育んでいく。
その過程で「友」とのつながりも育っていく。
「素行」ー本当に困った時に助けてもらえるのが「友」である。友達と知人は違う。
新民か親民か?
ここで今回配布された資料を紹介しておきます。
(クリックで拡大します)
朱子は「民を新にする」と読み替えております。自己の汚れを拭い去って、自己を革新する。その革新は他者にも影響を与えることになる。
後に、殷の湯王の言が引用されるところもあるので、そういった意味合いで「新」の字に読み替えています。
陽明はどうか?文字通り「親民」でいいという立場、「親しむ」と読むわけです。わざわざ「新」に変える必要もなく、「親」の字に「新」の意味も含まれている、と説明します。それを「新」に読み替えると意味が限られてしまう、と述べています。
この一字の違いを理解するにもなかなかですね(笑)歴史に名を残した本物の学者の意見ですから、論理を追うだけでも勉強になります。
明徳を明らかにするにあり。民に親しむにあり。
この二文は関係ない別のことを述べているのではなく、つながっているということがわかってきました。
「明徳を明らかにする」
松岡先生は繰り返し、「己事究明、自分を知ることが大切」と述べられています。
「己」とは何か?
もっと言い換えれば、自己と認識している「自分」とは己の本質であろうか?という根本的な問いと受け止めています。
「自分の」感情・思考・感覚・認識、などそれらはいわゆる「エゴ」であり、「利己」である。その奥にあるもの、「そこ」にあるもの、変わらぬものこそ「己」であろうと考えます。
言志四録で勉強した「真己と仮己」の「真己」ですね。
言志録 122 真己と仮己
訳文 : 宇宙の本質と一致して、自己善悪を判別できる真の真己があり、身体を備えて外見上の仮の自己がある。このように自己に二つあることを自ら認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。
そのそなわっているものを、自己を通じて明らかにしていく。
その働きが親民につながっていく。
民に親しむにあり。
「親しむ」とは物事にせよ、他者との関係性にせよ、「自己」との距離がなくなっていく、という意味に受け取りました。
松岡先生は単純に「仁・思いやり」と語られました。
人と比較し上下を意識するのではなく、「か・が・み」の「が」を取ることを意識しなければ、「曇りはとれない」と明言されました。
- それができなければ「親しむ」ことにならないこと、
- 人の痛みがわからなければだめなこと、
- 知識はものを判断する道具でしかないこと、
を特に大切な注意事項として述べられました。
まとめ
限られた時間で芳醇な世界を受講者のレベルにあわせて、わかりやすく説明していただいています。
「大学」というのは、人の上に立つ、つまり他者に良い影響をあたえる必要のある人がする学問である。何も「えらく」なる必要はなく、それぞれが与えられた立場で、良い影響を与えられれば良い。
そこで先ずすべきは、他者のあら捜しではなく、「己事究明」であること。ここに尽きるわけですね。
「己を知る」こと。
この大切さを今の段階で学べたことは、非常に勉強になっています。
「大学」の三綱領がわかれば、「大学」はそれで良い、とまでいわれる3つのうちの2つまで来ました。来月はその3つ目、「在止於至善」の解説です。
興味が出てきた方、ぜひ参加してみてください。
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