いよいよ三綱領の3つめにやってきました。「明明徳・親民・止於至善」のうちの【至善】の解説です。

今号「致知」10月号「人生の法則」の対談で、安岡正篤先生について特集されていました。また、使用している教材の作者が伊與田覺先生なので、安岡教学とその門下生の流れについても説明していただきました。
それでは見ていきましょう。
前回分はこちらからどうぞ。
重要な三綱領と八条目。「大学」において、ここがわかれば問題なし!
まず、会議室に入った瞬間に目に入ってきたのは、三綱領と八条目が書かれたホワイトボードでした。

明徳(智)・人間とはなにか?どうあるべきか。
この大学の三綱領の第一「明徳」がいちばん大切であると強調されます。その心は「己事究明」であります。
「自分自身を知ること」の大切さ。知らずに他者のことを批判しがちである。それでは、進歩がない。
自分とは何か、人間とは何か、人生とは何か、そういったものがわかり始めると、「仁」(思いやり)ができてくる。
- 孔子ー仁
- 釈迦ー慈悲
- キリスト-愛
と過去の偉人たちは言葉は違えど、上辺だけではない本質にたどり着き、我々に語りかけてくれている。
親民(仁)・「斉家」「治国」「平天下」
朱子は「新」の字に変えています。人間として新たに生まれ変わる、古い枝葉を断ち切って新たにしていく、という意味です。
朱子は、原理原則はなにか?まで追求していく、非常に深い思索。陽明はあくまで人間としてどうか、あるべき姿を考える。両者共深いが、「深さ」が少し違う。
斉家・家をととのえる
古代シナは一夫多妻であった。家庭には本妻がいて複数の妻、子どもたちもいた。その家庭内をまとめることも一苦労である。
その一門を問題なくまとめ得て、初めて治国平天下につながる事ができる。
至善に止まる(勇)-絶対的極致=至善「一点に落ち着く」=行動に移る!
人間は迷い迷いながら生きていく。正しいこと、物の道理がわからないうちは、フラフラと安定しない。しかし、物の道理がわかり、つまり実践によって艱難辛苦をなめた後には安定する。
わかったところで、しっかりと安定することが「止」まるという意味である。
人間の善悪というのは、「自分」を中心とした判断に基づく善悪である。そうではなく、「絶対的善」に到達することを表現している。
ここでも「わかる」という表現を使われていますが、かならずその後に、陽明の知行合一の説明をされます。
つまり、「知」の学問では意味がないこと、を忘れないよう繰り返して解説されます。
どうしても、現在の日本社会は、字句の意味を理解し、その解説に満足して終わり、といった受験勉強的なものを学問と認識しているきらいがありますので、そうではないんだよ、と常に思いださせていただいています。
今回配布されました資料はこちら。
クリックで拡大します。
今回の配布資料にてなるほどと、疑問が氷解したのが後半の文章です。後ろから8行目。
例えば、仁・義・礼・智・信の五常は、五つのものが、一応、五者並列的に数えられてはいるものの、最後の「信」と「仁義礼智」の四者との間にはいわば次元の相違とでもいうべきものがあると言ってよい。すなわち仁がまことに仁であり、義がまことに義であり、礼がまことに礼であり、智がまことに智であること、それらのことをそれぞれ保証する原理が信なのである。つまり、本来ならば仁義礼智の四者ー現に『孟子』ではこの四者だけであるーだけで済まして済まされないことはないのである。またそれは、あたかも木・火・土・金・水の五行において、「土」は決して他の四者と同一資格においてあるのではなく、木をまことに木たらしめるモメント、火をまことに火たらしめるモメント・・・それが土に他ならない、のに似ている。
図であらわすと、
五行思想 – Wikipedia
といったイメージです。(あくまで簡潔な説明です)。
安岡教学について
致知10月号(2018年)の特集に安岡正篤先生の記事がありました。その記事を説明されながら、「致知」という雑誌に対する思いも語られました。
なぜ「致知」という名前を竹井氏が選ばれたのか。安岡教学の影響とその情熱を説明されました。
まず安岡先生の傅家寶を紹介されました。
傅家寶
一、我か幸福は祖先の遺惠・子孫の禍福は我か平生の所行にある事已に現代の諸学にも明らかなり
二、平生己を省み過ちを改め事理を正し恩義を厚くすべし 百薬も一心の安きに如かず
三、良からぬ習慣に狎れるべからず 人生は習慣の織物と心得べし
四、成功は常に苦心の日に在り敗事は多く得意の時に因ることを覺るべし
五、事の前にありては怠惰 事に當つて疎忽 事の後に於ては安逸 是れ百事成らざる所以なり 天才も要するに勤勉のみ
六、用意周到なれば機に臨んで惑ふことなし 信心積善すれば變に遭うて恐るることなし
七、不振の精神 頽廃せる生活の上には何物をも建設する能わず 永久の計は一念の微に在り
昭和甲辰4月(1964年昭和39年 東京オリンピック開催の年)
八観の「観」=「聞く」「見る」
人の何を「見る」のか?「顔」など表面的なことではなく、その感ずるところを見なくてはならない。
過激思想とされる陽明学
なぜ安岡先生は「陽明学」なのか?と松岡先生は問われます。
その解答の一つは、「陽明の純粋なところに心惹かれた」というものでした。人生において、死ぬほどの思いをしたときに人は成長する。そのために少々「過激」と思われる表現、思想をとられた。
その陽明を理解するために易などを深く解されたと、考えておられました。
まとめ
古典講義「大学」四回目でした。
三綱領の説明が終わりましたが、なるほどここがわかれば全てに通ずるといわれる意味もわかりますね。
- 己事究明・己を知ること、知るためには実践しなければならない。知識だけでは駄目である。また実践だけでも駄目であること。
- 自分のことがわかってくると他者に対する思いやりができてくる。
- だんだん物の道理がわかってくると、絶対的極に到達する。そこがゴールか?否!スタートであるという視点。(火水未済で終わりでなく乾為天にもどる感じでしょうか)。
- 他者より私は優れているといった思い上がりから自由になること。
- 学問すればするほど、わからないところができてくる。それだけ虚心坦懐に学ばなければ本質から離れてしまうこと。
螺旋階段上に進んでいくイメージかな、と個人的には考えました。真上から見れば同じところをぐるぐると廻っているだけですが、横から見れば確実に上に登っている。
「上昇しなければならない」のか、と問われればその必要はないのですが、あくまで便宜上の説明と受け止めてくださいね。
何度も反芻しながら本質に肉薄していきたいですね!
つづきはこちら>>松岡照子先生による古典講義「大学」Ⅴ
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