松岡照子先生による古典講義。5回目を迎えました、「大学」の講義です。今回は会員からの質問に答えていただく時間をもっていただきました。
そこで出た質問を少し詳しく解説していきましょう。まずは一連の流れについて復習から始まりました。
「大学」とは修己治人の学問である

修己治人とは?
簡単に言うと、「リーダーの学」(大人の学問・学の大なるもの)である。だからこそ、実行するのが難しい。
・立派な人になるためには、どうなればいいのか?「人のためになる」ことが大切。
・そのためには? → 苦労が大切な要因となる。
・「徳性」が大切!
明徳と玄徳
「明徳」 | 「明徳」がやはり大切!「己事究明」己を知るということ。 |
「玄徳」 | 「玄徳」物事の根っこのようなもの。過去からの因縁も含まれる。 |
今回の配布資料
ここまでに出てきた基本的な人名、学問的区別の資料です。なかなかのレベルですね(笑)
古典講義「大学Ⅱ」の、「朱子の思想哲学の広さ」にもあります。

やはり繰り返し、人名や思想になれていくのが一番ですね。
質問「朱子学と陽明学の違いについて」 理気一元論と理気二元論
ここで質問はなにかありませんか、と問われましたので「一元論と二元論」の違いについて聞きました。
朱子学は二元論、陽明学は一元論とよく説明されますが「わかった」、というまでには至っていませんでしたので、質問してみました。
朱子学 理気二元論
性即理の世界 人間は矛盾の中に生きる
「性」とは何を表すのか? 「性」は人間の本来の心であり、そもそも天から授かった「天理」であるとする。ならば「性」すなわち「天理」となり、人間本来の「性」は天の「理」と異ならないとする。
「理」すなわち天地万物に流れる法則性のこと。
しかし、人間には「自分」という思考がある。すると、天の理から離れてしまう。そのような個々の人間の心に生まれる感情を「気」と表現する。善悪の感情や判断、行動など我々が日常していることです。
自然はすべて正しい。天行は健なり。ここには「善」「悪」の判断も何もない。しかし人間には、どうしても様々な感情、判断が生じる。
そのために学問をし、「理」を体得すべし、としたわけです。
「性(人間に本来あるもの)」は、すなわち「理(天から与えられたもの)」である。「気(人間の善悪などの感情)」は学問によって昇華すべきもの、それが「君子」になるために必要である。
陽明学 理気一元論
陽明は、上記の朱子学の「人間の心」を本質である「性」と、改善すべき「気(情)」に分けることを「観念的」であると批判し、「心」に「理(宇宙の本質)」が含まれている、とする「心即理」を提唱した。
前章において明らかにしたごとく、心の本体は元来無善無悪である。不断に自己を実現し発展しゆく独立自全の活動そのものである。生きんとする意志といふもすでに端的でない。真に「生これを性といふ」より他はなからう。意志はその最も溌剌たる根本的形式であって、この実在に意味あらしむる作用よりこれを知といひ、これらの作用の要求する対象を物といふのである。肉体も物の一件にすぎない。すなはちすべて本体の活動発展をいはねばならぬ。
引用:王陽明研究 P165 安岡正篤

久々に王陽明研究を本棚から探し出して読みました、、、。
まとめてみると、、、
陽明は一本の直線的。そもそも悪い心はない。
朱子は分析的。心とはなにか。性とはなにか。理とはなにか。いい心もあり悪い心もある。心と肉体の関係は?
そもそも人間とは矛盾の中で生きているもの。それをどうするのか。欲望をどのように扱うか?
そのような汚れを取りなさいとするのが究極のところ。これを実行するのが難しい。
本来のきれいなものにまとわりついている。あたかも泥のようなもの。蓮は泥の中に美しくさいている。泥があるからこそ、欲望に気づくことができる。
まとめ 中庸より引用
「きれいは汚い、汚いはきれい。」というシェークスピアの言葉を思い出しました。
今回のところは難しいですね!
一元論と二元論の説明を中心にまとめましたが、なかなか「わかった」とは言えません。少しづつ理解に近づけていることを感じています。
言葉で表現できることには限りがありますし、行間を読むとか、言葉は思考のカスだ、などという言葉もあるぐらいですから心して取り組まねばなりません。
あくまで「統一」・「分化」といった視点も忘れずに読み進んでいこうと考えました。
会員相互でもいろいろ意見が出て、気持ちのいい議論ができました。やはりどんどん質問はするべきですね(笑)
「性」について「中庸」より引用。
天の命ずるをこれ性と謂う。性に率うをこれ道と謂う。道を脩(修)むるをこれ教と謂う。道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕わるるは莫し。故に君子はその独を慎しむなり。
引用:中庸(岩波文庫)
性と謂う・・・「性」とは万人が平等に持つ人間としての本性。個人に内在する個別的な本性が、他面では絶対至高の立場からわりつけられたものだという思想は、中国思想史上ここで初めて確立された。これによって人間本性の本質的同一性と尊厳性とが保証されることとなる。なお朱子の解釈では「性」は、すなわち天の「理」の内在であって、倫理的には万人平等の純粋至善なものとなるが(性悪)、それを含む「気」の受け方の違い(個人差)によって、実際のあらわれとしては適不及の差が生じ、不善が生まれることになるとする。
内容的には繰り返し松岡先生がおっしゃっていることですね。
天が、その命令として〔人間や万物のそれぞれに〕わりつけて与えたものが、それぞれの本性である。その本性のあるがままに従っていく〔とそこにできあがる〕のが、〔人として当然にふみ行なうべき〕道である。その道を治めととのえ〔てだれにも分かりやすくし〕たのが、〔聖人の〕教えである。道というものは、〔いつでもどこにでもあるもので、〕ほんのしばらくの間も人から離れることのないものである。離れられるようなものは、真の道ではない。そうしたわけで、君子は〔はっきりしたことではいうまでもないが、〕自分で見聞しないはっきりしないことについても、いつも〔道のことを考えて〕わが身を慎しんで緊張をつづけている。〔ものごとは、〕隠しごとや微小なことほどかえって露見しやすいものだ。そこで、君子は〔いつも道を思って公明正大、あいまいな隠しごとなどは避けて〕内なる己れ自身を謹慎して修めるのである。

まあ、訳は訳として、ですね。日々の生活のなかでどのように受け取るか、受け取れるかというのがテーマだと個人的には考えます。
第六回はこちらから。
講義を最初から確認するにはこちらから>>古典講義「大学」のページ
Coldplay Yellow
歌詞はこちらで確認>>およげ!対訳くん: Yellow コールド・プレイ(Coldplay)
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