2018年、平成30年最後の大阪木鶏クラブでした。
「平成」として年の瀬を迎えるのは、今年が最後なので少しさびしい感じがしますね。
通常90分講義の後、30分「致知」読後感に移るのですが、忘年会の予定があるので講義を60分にしてもらい、「致知」読後感と年間の感想を語り合いました。
前回講義はこちらを参照
人間というものはすべて無明である
今回の講義において私個人の感情が動いたのは上記の説明があったときでした。
「無明」とは何か?「無知」とは違う。(もちろん無知のことという説明もありますけれども。)
「わかったつもり」になっていること、これが、無明ということ。論語読みの論語知らずと同じですね。
「物に本末あり。事に終始あり。先後するところを知れば、すなわち道に近し」。
「ものには本質と枝葉がある。ことには始まりと終りがある。順序するところを間違えずに処理できればリーダーとしての判断ができるようになる」。
今回はこの点を説明して頂きました。まずは朱子と陽明の差を確認しつつ、目に見えるものだけで判断・評価する危険性を語られました。
本末あり・終始あり、その判断基準を身につけるために。
本質こそが大事。
これは誰もが認識していることですよね。しかし、現代社会では見えるものだけに振り回されて、見えない「根っこ」・本質を見極められていないのでは?
「自己表現」という表現ばかりでは、人間の重厚さが育ちにくい。本質ではなく「オモテ」だけで判断しがちになっている。
原因と結果で考えるなら、「因」と「果」は直線的につながっているのではなく間に「縁」がある。
この縁が働くことによって、「善因」「悪因」に変わっていく。このことを「縁起」という。
ものごとの順序を間違わない。
例えば、火事に出くわした時にまず何をするか?
あれこれと原因を推し量るのではなく、まず火を消すことが一番大事!
物事の順序を間違わずに判断できるようになることが大事である。
ではその判断基準を身につけるために、どうするのか?が問題です。
その答えは「己事究明」ということにつながるわけです。
朱子と陽明・違いと類似
朱子は「窮理」を以て自己の本質に近づく。自己の本質に気づく、成長させるために掘り下げて研究しなさい、とする。「新」の一字。
陽明は自己の本質とは、生まれながらに「善」で、なおかつもともと持っている、とする。それを明らかにしていけばいいのだ、という立場。「親」の一字。
と違いはあるが、両者に流れているのは「仁(おもいやり)」である。
この「仁(思いやり)」こそが大切なもの。この「核」がなければ、たんなる知的お遊戯に堕してしまう。
まとめ
今回は予定を変更し講義が短縮されたため、ここまでとなりました。
会員からの質問もなかなか時間が足りず、説明はまた次回となってしまいました。
今回は、
「物に本末有り。事に終始有り。先後する所を知れば、すなわち道に近し。」
【物事には必ず本と末、終わりと始めがあるものである。そこで常に何を先にし、何を後にすべきかを知って行動すれば人の道に大きくはずれることはない。】
の部分を講義していただきました。
いよいよ「格物致知」の段に近づいてきました!
己とは何か?
その探求に尽きることが、より鮮明になっていくのでしょう。
お楽しみに!
次はこちらから>>古典講義「大学」第8回
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