懐かしの木鶏通信シリーズの1998年分です。
当時の大阪木鶏クラブの雰囲気と、人間学を変わらず追求・研究し続けている「致知」に興味を持ってくださればと考えます。
では、見ていきましょう!
月刊誌「致知」 1998年 木鶏通信 大阪木鶏クラブ
1月号・2月号
1997年11月例会で松岡照子先生が、「陰陽五行説」の講義をされています。それから約20年後の現在(2018年)、再び大阪木鶏クラブにて古典の講義(大学)をしていただいています。
現・神戸木鶏クラブ 代表世話人の二出川氏も大阪木鶏クラブに参加されていました。
3月・4月号
この4月号の大阪木鶏通信を書いておられるのが現・代表世話人の寺尾氏です。易を学ばれていたのがわかりますね。
5月号
1
1998年2月から「修身教授録」を輪読されていたようです。最近も読み直したところですが、読み応えがあり内容も非常にためになるので、何度でも読み返すのがいい本です。
6月号
7月号
8月号・9月号
10月号
1998年6月例会にて、小出氏と成田氏が会員となられた様子がわかりますね。「少人数なので内容の濃い話ができると思い、当会を選びました」とあります。わたしも同じ意見で、会員となりました。
11月号 東井義雄先生が語られたある高校での出来事
東井義雄先生が紹介された、女子生徒を励ます校長先生の話に感銘を受けた、との発表や、小島直記先生の作品「福沢山脈」から、朝吹英二の「人となり」がわかる出来事が記されていて、人としてどうあるべきか、に気づけた号でしたね。
この東井義雄先生のお話の中身は、「喜びの種をまこう」柏樹社 p133に載っています。以下引用します。
広島県下のある高等学校でのことだそうです。夏休み、水泳大会が催されました。そのプログラムの中に学級対抗のリレーが組み込まれました。
ある学級で、リレー選手を誰にするか、学級会が行われました。3人まではすぐ決まりましたが、残りの一人を誰にするかで紛糾しました。
その時、「Aに出てもらおう!」と叫んだものがありました。いじめグループの番長の叫びでした。
Aさんというのは、女生徒で、しかも小児麻痺で、不自由な体の生徒でした。とても、泳げるような体ではありませんでした。「A」さんを泳がせて笑いものにしようという番長の意図だったのです。
それなのに、一人も反対する者はいませんでした。
それどころか、「そうだ!」「そうだ!」「Aに出てもらおう!」という声が、湧き起こりました。
番長に逆らうと、どんなことになるか、それを知っている番長の手下たちの叫びだったのです。
当日です。
プログラムが、学級対抗のリレーに移りました。
「A」さんの泳ぐ番になりました。
残酷なことです。1 メートル進むのに何分もかかる有様です。
まわり中から冷笑の声が沸きました。その中を「A」さんは必死で泳ぎました。
その時です。
背広のままプールに飛び込んだ人がありました。
「辛いだろうが頑張っておくれ」「辛いだろうが頑張っておくれ」と、一緒に、泣きながら進みはじめました。罵声、冷笑がピタリと止みました。励ましの声に変わりました。
「A」さんが、長い時間をかけて、25メートル泳ぎ抜いたとき、先生も生徒も、一人残らず、泣きながら「A」さんをたたえました。
プールの中に飛び込んだ人は、その高校の校長先生でした。みんなの笑いものになりながら、必死で泳いでいる「A」さんを見ると、見るに忍びず、そうせずにはおれなかったのです。
その高校にもあった「いじめ」は、ピタリと止んだそうです。校長先生の、「ことば」を超えた、「身」の叫びが、学校を変えたのです。
中古本しかありませんね、、。値段が張ります。わたし持っていますので、借りたい人は言ってください。
12月号
木鶏通信は、編集部に送付された時期によって掲載号が決まるので、およそ2~3ヶ月のズレが生じます。
この8月号例会の様子を見ると、講演の予定などもあり盛りだくさんの内容が感じられます。
そして、努力する社会的弱者に温かい眼差しをかけられた小島直記先生の作品を、議論されている様子を嬉しく感じながら読みました。(個人的に小島先生のファンですから)。
まとめ ファイト! 満島ひかりver.
1998年の月刊誌「致知」愛読者の会・大阪木鶏クラブの木鶏通信でした。懐かしい名前、今現在につながる様子がありましたね。
そして、今参加している我々が、新たな歴史を作り、未来につなげている最中であるということが感じられます。(そんな大層に考える必要もないのですが(笑))。
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